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スペシャル・トーク「健康経営を考える」安田行宏(金融)×和田裕雄(医学)①

2023年11月27日

「スペシャル・トーク」シリーズは、一橋大学大学院経営管理研究科の教員・研究者が自身の研究テーマや共通のトピックについて一橋の卒業生・修了者と語り合う企画で、研究の意義や最新の研究内容を分かりやすく解説するとともに、対話を通じて社会へのメッセージを発信します。

第1回となる今回は、本学の安田行宏教授と、順天堂大学大学院医学研究科・和田裕雄教授が、「健康経営®*」について語り合いました。和田教授は、本学の経営管理プログラムの修了者で、医学領域の研究者でありながらMBAを取得した異色の経歴の持ち主です。安田教授と和田教授とは「健康経営」をテーマに共同研究を進めていて、昨年(2022年)は米国の学会誌に、本年(2023年)8月には日本証券アナリスト協会の証券アナリストジャーナルに共著の論文を寄稿しています。

■今注目されている「健康経営」は、これまでの「健康増進」とは何が違うのか?

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安田行宏教授

安田:「健康経営」は、「企業が従業員の健康に配慮することによって、経営面においても大きな成果が期待できる」との基盤に立って、健康を経営的視点から考え、戦略的に実践することと定義されています(NPO法人健康経営研究会)。日本において「健康経営」が特に注目されるようになったのは、2011年に経済産業省がヘルスケア産業課を作り、2013年には安倍首相の下で「日本再興戦略」や「未来投資戦略」が策定され、その中で「健康寿命の延伸」という考え方が打ち出されたという背景からでした。いわゆる成長戦略の一環として健康が考えられるようになったわけです。そうした流れの中で健康経営を推進する企業を選定する「健康経営銘柄」という制度が作られ、企業によるさまざまな取り組みが行われるようになったことで裾野が広がってきています。それまでの身体的な健康増進だけではなく、従業員の健康がどのように企業価値向上に影響するかということを考えるようになってきました。

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和田裕雄教授

和田氏:「働く人の健康」の観点から、少し時代をさかのぼりますと、明治時代の日本が「殖産興業」の一環として産業化を加速させる中で、早くも労働環境と従業員の健康が問題となりました。その改善を図るために明治時代、戦前、戦後を通じて、法整備が進み、1972年に産業医という呼称とその制度が確立するに至りました。当時は産業医の人数が少なかったこともあり、その活動は主として従業員の個人レベルの健康増進および職場の安全の確立が主な目的となっておりました。最近は「健康経営」「快適職場」などの考え方も導入され、従業員が健康で働き、いかに企業活動に貢献できるか、という職域特有の視点からも健康課題が議論され始めています。産業医には、自分が担当する職場のことをよく知り、従業員が活き活きと働けるような環境を作ることが求められるようになってきました。従業員個人の「健康と安全」だけでなく、企業活動に貢献できる「従業員と職場の体制づくり」、いわば、人事的な側面に焦点が当てられることは、現在でも多くなっていると感じますが、いずれは、経営者も従業員の健康を「福利厚生」あるいは「コストセンター」ではなく「投資」の観点で捉える健康経営の考え方が標準となる時代が来ると期待しています。実際、従業員の健康管理を含めて担当するCHO(=Chief Health Officer)をCEO、CFOなどと並んで設置する企業も現れ始めました。

■最近よく聞くキーワード「アブセンティズム」や「プレゼンティズム」とは?

和田氏:「アブセンティズム」は、健康を害して欠勤する(アブセント)ことにより、その分、個人としても職場としてもパフォーマンスを落とすということを意味しています。「プレゼンティズム」については、複数の考え方があり、主な一つは、健康上の理由で100%の力が出せずに80%で仕事を終えてしまった場合、企業にとっても従業員自身にとっても20%の経済的な機会損失があるという「損失(ロス)」に注目する視点です。もう一つは三次予防、あるいは、リハビリテーション医学的な視点です。病気や怪我の療養中あるいは療養後の復職を表し、機会損失よりも社会復帰に注目しているという特徴があります。後者の立場では、「プレゼンティズム」「復職」は医療行為のゴールになりえます。この場合は、医学・公衆衛生学の問題と考えることが可能です。一方、前者の立場では、プレゼンティズムは、多くの場合、アブセンティズムとともに損失を見ることになり、医学・公衆衛生学と経済学・経営学とを結ぶ視点となるかもしれません。

安田:そうですね。「損失」に注目すると、一見、アブセンティズムによるロスは大きいように思われますが、実はプレゼンティズムによるロスの方が大きいというリサーチがアメリカであり、日本でも研究が進んでいます。そうした研究により、体調を崩して休むよりも、出社はしているが、充分なパフォーマンスが出せていない状態の方が問題であるということが、概ねコンセンサスになってきています。

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日本企業での調査結果
出典:厚生労働省保険局「データヘルス・健康経営を推進するためのコラボヘルスガイドライン」平成29年7月

和田氏:花粉症患者の眠気を例に挙げると、花粉症を発症すると眠気を催すことがあり、また薬で治療を開始すると、その薬の影響で眠くなることがあるため、職場にいても仕事のパフォーマンスが落ち、プレゼンティズムによる損失が生じます。あるいは、「女性の健康」でも、月経困難症、更年期障害などによりベストの状態で働くことが難しい場合についても考える必要があります。もちろん、仕事は、その人の社会的役割や生きがい、あるいは、ウェルビーイングとも関連しますので、十分なパフォーマンスを発揮できなくても、無理のない範囲で働くことは重要です。しかし、花粉症も女性の健康課題も症状の個人差が大きく、従業員へは個別の配慮が求められますが、第三者からは健康問題として認識されていないことが懸念されます。その結果として、これらのプレゼンティズムも「ないこと」が暗黙の了解となっているような気がします。

安田:これから労働人口が減少する中で、高齢者や女性の就労が注目されるようになると、そうした視点が置き去りになる恐れもあるので、和田先生のご指摘は大変重要だと思います。すべての労働者の労働条件としては、1993年に労働基準法が改訂され、週法定労働時間の上限が48時間から40時間に、つまり週休二日制になりました。そのことが90年代以降の日本の労働生産性低下につながったという有名な論文がありますが、それはアブセンティズムによるロスの考え方に通じるものです。この研究には賛否両論がありましたが、今、週休二日制の効果をプレゼンティズムの観点で捉え直し、就業日が1日減るという経済損失よりも、休養日が1日増えることによるプレゼンティズムの低下の効果を考慮することもできるのではないかと考えています。

■出社していれば良い、ではない。「ワークエンゲージメント」とは?

和田氏:休養によるプレゼンティズムの軽減、すなわち、パフォーマンス向上を説明できそうな概念に、ワークエンゲージメントがあります。活動水準を縦軸に、仕事への態度や認知を横軸として見ると(図参照)、仕事が楽しくて活動量も上がっている場合は、ワークエンゲージメントと分類されます。医療従事者の仕事の大半は、病気や怪我で苦しむ人々を通常の健康状態(「健常」と呼ぶ)に戻すというマイナスからゼロまでの議論になります。一方、健常人をプラスサイドへ押し上げる可能性を帯びたワークエンゲージメントは、私の立場では、少子高齢化が進行する日本社会における非常に重要な概念だと思います。

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出典:島津明人『ワーク・エンゲイジメントに注目した個人と組織の活性化』
(2015年,日本職業・災害医学会会誌 JJOMT Vol. 63, No. 4)

安田:経済学的な立場でも、健康は人に関わる費用、即ちマイナス値として捉えて、それをいかに埋めるかという見方をしますから、和田先生の医学的な立場と似ています。一方、経営学におけるエンゲージメントの考え方では、企業価値をゼロからいかにプラスにしていけるかということに焦点を当てています。このように、健康経営を論じる時には、立場によって見ているところが異なるので、議論がかみ合わないこともあります。経営としてやるべきことが、マイナスをゼロに持っていくためのものなのか、ゼロをプラスにしようとしているのか、明確にすることでより理解しやすくなると思います。

■「費用」から「投資」へ

安田:これまで経済学では、従業員は健康であることが前提だったので、議論の射程に入っていなかったのですが、プレゼンティズムのように、実は100%の力を出せていないという状況も考慮する必要が出てきました。単純にコストファクターとしてだけではなく、リターンにも目を向ける必要があるという気づきが共有されつつあります。

和田氏:「リターン」という言葉で思い出しましたが、以前、米国の運送会社の関係者へのインタビューをしました。トラック運転業務の従業員が睡眠時無呼吸症(眠気の原因となりうる。)だと、交通事故が4-5倍に増加しますが、睡眠時無呼吸症へのスクリーニングと診断・治療を行ったところ、交通事故が減少(マイナスサイドの改善)しました。それだけでなく、従業員が「会社が私たちに投資をしてくれる」と感じて、パフォーマンス向上に至る(プラスサイドへの向上)、というお話を聞きました(論文へのリンク)。 まさに、健康経営を地で行くようなお話です。「伝統的」な日本企業も、以前はこうした「家」的な役割を担っていたと思いますが、それが変わってきているのではないでしょうか。

安田:確かに、日本では、以前は家族経営的な特徴があり、従業員の健康を会社が面倒を看るということが一般的でしたが、それがハードワークと重なって「社畜」という受け止め方をされるようになってきました。さらにその後のグローバル化の進展などにより欧米的な考え方に変化してきた一方、むしろ今や米国の方が、例えばアマゾンのように家的なケアを従業員に提供し、社員からのコミットメントやモチベーションを高めています。米国の企業はそうしたコンセプトを上手く見せるのに長けているように思います。

■何が従業員のモチベーションに影響を与えるのかを探る

安田:従業員のモチベーションは、その高い低いだけではなく、企業活動に貢献できるという質も重要です。自分自身の成長のために仕事をしているのか、あるいは社会のためにやっているのか、という目的意識によってもモチベーションの質は異なります。例えば、ストックオプションは経営者や幹部社員のモチベーションを上げる報酬の仕組みとされますが、それだけで実際のパフォーマンスが上がるのかというと必ずしもそうではありません。企業の社会的意義を追求するパーパス経営ということも重要な要素でしょう。つまり、多面的に考える必要があるということです。近年、データ処理が飛躍的に高まっているので、そうした多面的な要素がモチベーションにどれくらい影響しているのか数値化することも可能になっています。例えば、プレゼンティズムについても、自己評価だけではなく周囲からの第三者評価も含めて数値化した研究があるので、それを医学の分析と掛け合わせると、新たな見方が生まれるかもしれません。そうした異なる分野から意見を出し合うのは興味深いですね。

和田氏:そうですね。疫学にgenetic and environmental interactionという概念があります。病気等の健康問題は遺伝要因と環境曝露要因と両者の交互作用で説明できる、というものです。身体内部の生命現象に注目して、もともとの遺伝子発現、さらに外部環境への曝露が遺伝子発現に与える影響と健康問題との関係解明など、これまで医学は、遺伝子発現に関わる生命現象を対象に研究が進められてきました。今後は、労働時間、就業条件、人間関係を含む職場環境などの身体の外部環境が個人の健康やモチベーションに与える影響を医学・生物学的に明らかにし、これまでの研究と統合することが興味深いテーマになると思います。その意味で、経済学的・経営学的に企業や組織のパフォーマンスを数値化して分析されている安田先生との研究は、興味が尽きないですね。

*「健康経営®」は、NPO法人健康経営研究会の登録商標です。

 

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