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リーダーシップを自ら鍛えよ――志賀俊之客員教授に聞く

2023年01月19日

一橋ビジネススクール「経営管理プログラム」においては、実業界で顕著な実績をもつ経営者が客員教授として講義を行っています。「経営者講義A」を担当する志賀俊之先生は、日産自動車でCOO(最高執行責任者)などを務めたのち、現在は株式会社INCJ代表取締役会長として日本の産業競争力の強化に力を注いでいます。自らのご経験や講義のポイントについて伺いました。

ルノーとのパイプ役を担う

――志賀先生は大学卒業後の1976年に日産自動車に入社されました。若い頃の経験で、のちに経営者になる際に役に立ったのはどんなことでしょう。

志賀俊之先生

私のキャリアのベースは、1991年から97年まで約5年半のインドネシア駐在です。これには前哨戦があって、その前の4年ほど海外事業部門でインドネシア参入(正確には再参入)計画を練っていました。ところが、90年に経営会議に諮ったものの、否決されてしまう。バブル崩壊の影響で、海外投資が全て凍結されてしまったのです。それでもあきらめ切れず、「インドネシア駐在事務所設立の件」という提案書を提出した。要するに、会社設立はノーでも、小規模な事務所ならばいいでしょう、と食い下がったわけです。その提案書に「所長・志賀俊之」と自分の名前を書いて役員に持っていきました。すると、あっさり承認され、1週間位で内示が出ました。

現地に行ってからはインドネシア市場の有望性について本社に訴え続けました。それに根負けしたのか、当時の社長が視察に来てくれることになった。その結果、ついに94年10月、会社設立が承認されました。それから、たった一人で会社登記、工場の建設準備、販売網の整備などをやり遂げました。当時、私はまだ41歳でしたが、海外子会社をゼロから立ち上げた経験は、後々に本体の経営者になった時にとても役に立った気がしますね。

96年に現地生産が始まり、販売も好調に滑り出したのを見届け、私は97年3月に日本に戻ります。新規市場立ち上げを手土産にした、いわば凱旋帰国となり、本社の中枢である企画室に配属されました。

――以後、仏ルノーとのアライアンス締結に関わられ、企画室長とアライアンス推進室長を兼務されます。

当時の日産はバブル期の過剰投資などがたたって、倒産の危機に瀕していました。そこで持ち上がったのがルノーとの提携で、銀行団がロールオーバー(融資継続)してくれるギリギリのタイミングだった1999年3月27日、資本提携契約の調印にこぎ着けました。その後、カルロス・ゴーン氏が経営再建のために来日し、同年10月に「日産リバイバルプラン」がスタートしました。

そこから私はゴーンさんと二人三脚で奔走することになります。企画室長兼アライアンス推進室長という私の立場は、ルノーと日産のパイプ役であると同時に、経営陣と現場の社員たちとのパイプ役でもあります。再建のために負の遺産と決別しなければいけない一方で、「ここを変えると日産らしさが失われてしまう」という部分をどう残すか。ギリギリのせめぎ合いを調整する難しい役割を担いました。

私には「悔しさから出てきた使命感」がありました。日産という会社が大好きだったので、「こんなもんじゃない」と切歯扼腕していた。たしかに当時の日産は「技術の日産」の看板を過信し、採算性の悪い車を出し続けていた。ですから、コスト管理を徹底して収益体質に変えていければ、必ず蘇るという自信がありました。

――2022年度の講義においては「カルロス・ゴーン経営を再考する」という回が設定されました。

さわりだけ紹介すると、当時としては相当いい改革ができたと思うんですよ。たとえばコスト意識が高まったし、世界中にマーケットを広げることにも成功しました。しかし本質的なブランド力の強化や、お客様の信頼を勝ち得るところまではたどり着かなかったのではないか。企業再生においては、コストカットによって短期的にV字回復するケースは多く見られます。ですが、長期的に安定成長させるためには、やはりブランド力、お客様の信用、信頼が不可欠。それが十分でなかったことは、COOだった私としても大いなる反省点です。

大義を語るのがリーダーの役割

――2005年から2013年まで日産のCOOを務められました。この時代の取り組みについて、一つ挙げていただくとしたら何でしょう。

この時期に、業界の先陣を切って電気自動車(EV)へと舵を切ったことは大英断だったと思います。当時はハイブリッド全盛期でしたが、ゴーンさんはライバルの後追いはせず、独自路線を推し進めました。社内には激しい抵抗がありましたが、ゴーンさんは「EVは大義だ」と説得して回った。「地球環境負荷の低減は企業の社会的責任。もう化石燃料で走る車は作れなくなる」と、ゴーンさんも私も社内や販売会社で講演を繰り返しました。

初代「日産リーフ」は2007年に開発に着手し、2010年12月に発売されましたが、最初は売れず、大変苦労しました。それでも、誰かがリスクを取って決断しなければ、新しい市場は生まれません。今、私は官民ファンドであるINCJの会長を務めていて、新産業の創出に力を注いでいますが、新市場を創出し、世の中を変えていくのはそうした起業家精神あふれるリーダーだと改めて実感しています。

――講義を通して、学生に強調したい点は何ですか。

私は学者ではありません。修羅場を苦労しながら乗り超えてきた一経営者として、実務経験を通じて得た「気づき」を一生懸命、教えています。

私の講義を貫くテーマは「経営者に必要なコンピテンシー」です。リーダーシップと言ってもよい。私自身はゴーンさんと約19年間一緒に仕事をし、特に最初の14年は彼の強烈なリーダーシップに間近に接しました。今は彼を評価しづらい状況にありますが、少なくともビジネスリーダーとしてはやはり傑出した存在だと思います。私自身の経営者としての学びの多くも、彼から得たものです。そう考えると、リーダーシップとは後天的なものだと思います。生まれつきのリーダーなどいません。自ら鍛えることで獲得できるものなのです。


志賀俊之客員教授略歴

1976年3月
大阪府立大学経済学部卒業
1976年4月
日産自動車株式会社に入社
2005年4月
同社高執行責任者に就任
2005年6月
同社代表取締役に就任
2013年11月
同社代表取締役、副会長に就任
2015年6月
産業革新機構会長に就任
 
その後、日産自動車取締役副会長を退任し、取締役となる
2018年9月
株式会社INCJ 代表取締役会長(現職)

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